私が、ロッテ・マリーンズを応援するようになったきっかけ | 認定NPO法人 環境市民

私が、ロッテ・マリーンズを応援するようになったきっかけ

このコーナーは,2002年から2013年まで環境市民の事務局長を務めた堀孝弘が,在職時に書いたブログを掲載しています。

  このブログの第2回「ロッテ・マリーンズがますます好きになった」で、関西人である私が、阪神タイガースを応援する一方、1995年からロッテ・マリーンズも応援していることをお伝えしました。そのきっかけとなった出来事を紹介しましょう。
「1995年」、この年の1月17日、忘れもしない阪神淡路大震災が発生しました。この年、千葉ロッテ・マリーンズに、フリオ・フランコという外国人選手が入団しました。アメリカでかなりの実績をあげた選手です。彼は来日前に発生したこの大地震に心を痛めていました。毎年オールスターゲームが開かれる8月、プロ野球のゲームが中断する時期があるのですが、その時、彼は日本に来ている外国人選手と彼の思いに賛同する日本人選手を集めて臨時の2チームをつくり、福岡ドーム(現ヤフードーム)を借り切ってチャリティ試合を催し、経費を除いた収入を被災者支援に寄付しました。

試合後のインタビューでフランコ選手は、「震災の被害の大きさに心を痛めていた。自分は背番号21を付けている。この番号は自分が尊敬するロベルト・クレメンテ選手と同じだ。今自分はクレメンテに少し近づけたことを誇りに思う。」などのことを言っていました。

ロベルト・クレメンテとは、アメリカ・メジャーリーグで1955〜1972年にかけて活躍した選手で、首位打者を4度獲得し3,000本もヒットを打った大選手です。ですが、そのことよりも別のことで有名な人です。プエルトリコの貧しい家に生まれた彼は、苦労してメジャーリーガーになりましたが、1972年12月に発生したニカラグアの大地震に心を痛めていました。地震発生からすぐ支援物資を集め、飛行機をチャーターし、自ら乗り込んで被災地に向かいました。ですが、そんな彼に悲劇が待ち受けていました。支援物資を積んだ飛行機がエンジントラブルで墜落し、1972年12月31日、38年の生涯を終えました。

彼の死を悼んだメジャーリーガーたちは、彼の遺志を継いで何かできないか考えました。そのひとつが「ロベルト・クレメンテ賞」の創設でした。これは、もともと「コミッショナー賞」という名で、メジャーリーグ機構が創設した賞で、その一年、最も社会貢献した選手に贈られるものでしたが、「最もふさわしい名称にあらためる」とのことで、クレメンテの名に改称されたのです。メジャーリーガーたちはこの賞がもらえることを、とても栄誉に思っています。また、多くの中南米出身選手にとって、クレメンテが付けていた「21」は、あこがれの背番号になっています。

フリオ・フランコはクレメンテにあこがれるだけでなく、来たばかりの日本の地で、震災被災者支援を実践してくれました。そのことに強い感銘を受けました。それから、ロッテ・マリーンズが気になりだしたのです。

でもね。こんな浪花節のような選手、フリオ・フランコだけじゃないんです。それについては、また別の機会に…。

 

《写真は、ロベルト・クレメントが墜落死した飛行機と同型機ダグラスDC-7(ただしプラモデルの箱、墜落機とスイス航空は関係ない)》

1995年1月の阪神淡路大震災に話を戻すと、その当時、環境市民は数ヶ月間、神戸に臨時出張所を設けて現地での被災者支援や、京都で支援物資を集めて現地に送るなどのことをしていました。