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報告:環境市民の被災現地に対する支援活動
3月11日に発生した東日本大震災は、言葉や文で形容のしようのない被害をもたらしました。被災地に対する支援活動について報告をします。
2011年6月13日
今年3月11日に発生した東日本大震災は、言葉や文で形容のしようのない被害をもたらしました。あわせて発生した原発事故に対して、環境NGOとしての情報発信を続けてきましたが、以下、被災現地に対する支援活動について報告をします。
環境市民は1995年の阪神淡路大震災では、神戸市内に出張所を設け、行政の手が届いていない被災者への支援活動に数ヶ月間取り組みました。しかし、今回は被災地までの距離だけでも千km以上あるなど、環境市民単独での支援活動は難しく、神戸市内に本拠を置く、認定NPO法人阪神淡路大震災1.17希望の灯り(略称HANDS)が取り組んでいる「TASUKIプロジェクト」に協力して、被災地支援に取り組みました。
TASUKIプロジェクト
HANDSは、1995年の阪神淡路大震災で被災した人たちが中心となって設立された団体で、TASUKIプロジェクトは、「大切なともだちにささやかなプレゼントを」をコンセプトに、自分と同じぐらいの年齢、背格好の被災者を想定し、友だちにプレゼントを贈るつもりで、今何を送ったら役立ち喜んでもらえるか考えて作ったセットを、一般市民から募り、それを被災者に届ける取り組みです。東日本大震災の後、環境市民からHANDSに協力を申し入れたところ、HANDS代表の堀内正美さん(本職は俳優)はとても喜んでくださり、一緒に取り組むことになりました。
今回の東日本大震災では、全国の自治体、警察、消防、自衛隊も多くの人員を被災地に送り、大量の支援物資を被災地に送る企業もありました。一方、当初は個人からの支援物資の受け皿が被災地にない状況であり、個々の市民にできることと言えば、義援金の募金ぐらいしかなく「もっと何かしたい」と考えていた人たちから共感を得ることができました。環境市民でも3月16日から新聞やラジオ、インターネットを介して、TASUKIプレゼント(支援物資、以下TASUKI)の提供を市民に呼びかけたところ、予想以上の反響を得ました。環境市民の事務所は狭く、期間限定で近所の幾つかの空き事務所を無償で貸してもらいましたが、それらも一杯になりました。
現地へのTASUKIお届け、第1便から第2便
3月29日に第1便が神戸から京都経由で気仙沼市や陸前高田市に向けて出発しました。この時は神戸で1,200程度、京都で600程度のTASUKIを積み込みました。第1便に堀も同行しましたが、まだこの時点では被災地は混乱していて現地に受け皿が出来ていたわけではありません。TASUKIをあちこちの避難所に配ってまわったという感じで、これを受け取った人に、この取り組みのねらいがどこまで伝わったか疑問もありました。
第2便が出発したのは4月12日です。第1便の出発がテレビニュースでも報じられ、さらに多くのTASUKIが集まりました。しかし広く報じられるほど取り組みの詳細が伝わらず、被災者に送れないものも届けられ、数の多さと選別作業で4月上旬の環境市民事務局は大変な状況になりました。この頃、TASUKIは京都だけでも1,400ほど集まり(神戸は3,000)、10トン以上のトラックが必要となり、京都市役所前広場を借りて積み込みをしました。第2便では神戸や東京のライオンズクラブが全面的に協力し、現地では福島県、宮城県、岩手県のライオンズクラブが受け皿になり、避難所にTASUKIを届けてくれました。また、東北までの搬送は神戸のヤマト運輸が協力してくれました。
(写真:認定NPO法人阪神淡路大震災1.17希望の灯り提供)
TASUKIプロジェクトの今後
この第2便でHANDSの堀内代表らが被災地をまわりながら、今後の協力関係を築いていく集落も見つけ、第3便(4月29日)以降、その集落をおもな拠点に、TASUKIの提供だけでなく、被災家屋のガレキ撤去や生活支援など、Face to Faceの活動を続けています。第3便には私も同行し、ブログで報告しています。(こちら)
この場をかりて、TASUKIプロジェクトに物資をおよせくださったみなさん、荷物の仕分けをお手伝いいただいたみなさんに心よりお礼申し上げます。
(文/事務局長 堀 孝弘)