第16回 教育の本当の危機 | 認定NPO法人 環境市民

第16回 教育の本当の危機

文 / 環境市民代表理事 杦本 育生

大学では、学生たちの基礎学力が不足している、いやそれ以前に人間として大人になっていない、まるで中学生のようだ、という声が多くの教員から聞こえてくる。青年会議所は若手の経営者が集っているが、とある会議所の人達の悩みは、新卒の社員たちが、社会人として余りにも幼すぎることだと、口を揃えた。

また、親による幼い子どもへの虐待と殺傷、少年による理解不能な殺人や親殺し事件が連日マスコミをにぎわしている。学校では、陰湿なイジメが当たり前となり、小学校でも学級崩壊が広がり、学校に身勝手な口出しをするモンスターと呼ばれる親も急増しているという。

なぜ、日本はこのような社会になってしまったのであろう。多くの人々は教育のせいだという。確かに教育は大きな問題だ。ただ、それは巷間で言われるような、日教組がすすめた?自由主義的な「戦後教育」や、「ゆとり教育」が原因ではない。

日本の教育の本質的な問題は、民主主義社会の主人公となる社会人が育つためという目的がなかったことではないだろうか。自己とともに他者の自由と権利を尊重するがゆえに、社会的な課題に責任ももって積極的に関わるという、民主主義の主人公になる市民を育てることを怠った。第二次世界大戦後、日本は民主主義教育へと大きく舵をきった。しかし、徐々に企業のコマとして役立つ人材養成、利己的な成功を誘引する受験教育へと変質をしていった。このような流れを決定的にしたのが、そのような教育に対して異議をとなえた69年~70年の大学紛争後への日本社会の対応である。学生は勉強を一生懸命していればいいとして、学生が社会に関心をいだくことさえ悪とみなし、子どもは社会的課題に無関心である方が良いとされる考えと、それに基づく「教育」が広げられていった。

日本の経済的成長がこの教育を後押しした。社会に真剣に向き合うより、私的な経済的成功やミーイズムを追求するライフスタイルが当然とみなされるようになった。社会に多少おかしなことはあっても、全体として日本はうまく行っているではないか、社会的な問題は政治家や官僚が何とかするだろう。誰もが現在の生活を楽しんでいるのだから、社会的な問題に取り組むなんて損をするだけだ。

このような考え方と生活は、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンを経てバブルが崩壊するまで日本社会の主流となった。その大人たちが作る社会の元、子どもたちは、競争をあおる受験教育の中にどっぷりとつけられていた。これでは、他者への思いやりと相互扶助、自然を敬い大切にする心、生活の共通基盤である社会の課題への関心と行動、そのような精神が子どもたちの中で成長するわけがない。イジメや極端な利己的思考が助長される社会的環境なのである。

このような社会で学校生活をおくった人々も、最も上の人はすでに50歳に達している。そしてその子ども達も同じ社会環境で育てられ、三世代目になってきている。

現代の日本社会で起こっている悲惨な事件の原因は、経済的成功と私的利益を最優先する価値観に基づく社会とその社会に適応した教育ではなかろうか。事件となるようなことを起こす人は少数である。しかし、その精神的病理は私達の社会が作り出したものであり、人々の心の中に、多かれ少なかれ潜んでいるのではないだろうか。事件を起こすようなことはないにしても家族や地域社会とのつながりがここまで希薄になってしまったのも同じ原因である。そしてこのような精神的病理が環境問題を引き起こし、また解決への行動を遠ざけている。

バブルの崩壊後、金とモノだけの豊かさに対する疑問や反省が広がっていった。また阪神淡路大震災への支援を契機として、ボランティア活動が急速に拡大した。どのように社会的環境であろうと決してなくなることはない、心の中にある人本来の価値観が復活してきたのであろう。しかし、改革の名の下にまたもや競争をあおる政策がつづき、格差が拡大し、事件は多発している。

学力の低下や事件の表面的な問題だけを捉えて受験競争をあおる対策、子ども達への信賞必罰、学校管理の更なる締め付ける対策が画策されている。しかしこのような対策は、問題を起こしている原因をより深刻化させるだけである。教育だけを切りはなして改革することはできない。金とモノで価値を判断する社会を根本的に改革すること、その戦略と行動が必要であり、それは持続可能な社会を創る最大の要素の一つである。

(みどりのニュースレター 2008年1月号 No.176掲載)

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