第5回 地球の造形 | 認定NPO法人 環境市民

第5回 地球の造形

文/代表理事 すぎ本 育生

一度は自分の眼で見てみたいと願っていた風景のひとつが今、目の前にある。マッターホルン、深い碧空(あおぞら)を背景に屹立しているその姿は、自然の創造力の大きさと美しさを見事に表している。標高3000メートルに立っても、まだ仰ぎ見るほどの高さ、いくつものシャープな線によって構成された造形、ねずみ色の岩壁と雪の白だけで描かれる山肌の模様。このような大自然のもとでは、人はみな厳粛かつ素直な気持ちになってしまうのであろうか。

麓にあるツェルマットの村に降りて、小さなホテルの庭にあるチェアーに座り、教会の尖塔越しにマッターホルンの姿を眺める。飽きの来ない風景とはこのようなことをいうのであろう。夏至が過ぎたばかりなので、谷あいにある標高1600メートルのツェルマットでもなかなか暗くならない。時々まどろみながら8時からの夕食までマッターホルンと村の風景を眺め続けた。

このような時間が過ごせるのも、ツェルマットの村は自動車の乗り入れ禁止がされているから。緊急車を除いてガソリン・ディーゼル車は禁止されている。代替として小型の電気自動車が走っているがタクシーやホテル等の営業用で、これもマイカーは禁止。観光用に馬車もある。観光客も全て登山鉄道でツェルマットを訪れる。目的は環境保全とともに観光資源の保全。観光バスやマイカー観光をシャットアウトすることで、日帰り観光がもたらす喧騒、排気ガス、ごみの大量発生を未然に防ぐことに成功し、滞在型の質の高い持続可能な観光地になっている。

駅前から教会に通じる通りはレストラン、ショップ、ホテルが並ぶ村一番のにぎやかさだが、クルマが走らないのでどこかのんびりとしている。夕方、放牧から帰ってくるヤギの群れとそれを追う牧童の姿が、この通りでみられることが観光客をよろこばせる。スイスにはこのツェルマットのようにクルマのない観光地が他にもあり、GASTという協会をつくっている注1

滞在するホテルはスイスの伝統的な建築様式であるシャーレー風の木造建築、しかもマッターホルンが部屋のベランダから正面に眺められることから選んだ。その選択は期待以上の光景を提供してくれた。深夜ベランダに出ると、マッターホルンの斜め上に満月がかかり、その月明かりがマッターホルンを青く照らし出している。この神々しさはどのように例えればいいのか、言葉が見つからない。

そして黎明、漆黒の空がやや青み、やがて紫がかかり、その後マッターホルンの頂上から千メートルほどの岩肌が真っ赤になった。それはまさに刀鍛冶が叩いている灼けた鉄の色であった。岩肌の赤はすぐに色鮮やかな黄色となり、やがて街は朝を迎えた。

逆さマッターホルンが見えるとして有名なリッフェル湖よりも、眺めの良い湖があるとホテルの人に聞いてトレッキングに出かけた。ツェルマットから地下道を行くケーブルカーでスネガへ、ここから山道を1時間ほど歩いてそのシュテリ湖に着く。トレッキングで訪れる人が多いリッフェル湖よりも確かに人は少ない注2

それよりも湖面に映るマッターホルンの鮮やかさが素晴らしい。湖岸の岩にすわり、本物のマッターホルンと逆さマッターホルンそして黒味さえ帯びた快晴の碧空、湖岸の高山植物の緑を眺め、思いきり深呼吸をする。少しでも風があると湖面にさざ波が立ち逆さマッターホルンは消えてしまうが、この日は全く風がなくこころゆくまで絶景を楽しみ、岩にもたれて昼寝をしてしまう。

シュテリ湖から尾根沿いのトレッキング路を1時間、スイスで最も高い土地にあるフィンデルンの村に着く。この村の小さな教会越しにみるマッターホルンの景色は絵はがきやパンフレットによく使われているほどの景色だ。村にあるレストランに入り、遅い昼食を摂る。このレストランからもマッターホルンを遮るものもなく眺められる。このような素晴らしい自然がある星に感謝したくて、ワインをとりマッターホルンにむけて乾杯。

(注1)GAST
スイス自動車乗り入れ禁止観光協会。2000年現在9町村が加盟。

(注2)シュテリ湖
84年に私が最初に訪れたころよりも、最近はトレッキングでかなりの人が訪れるようになったが、静かな雰囲気は壊されていない。

(2006年3月号 No.154 みどりのニュースレターより)