第2回 希望と将来像 | 認定NPO法人 環境市民

第2回 希望と将来像

文/代表理事 すぎ本 育生

希望は、「人徳」の中で他のものよりも格が高いという。その理由は希望をどのようなものとして考えるかによる。この格が高い希望とは、次のように説明されている。成し遂げる確率が半分以上ある場合、「成し遂げることができるであろう」というのは希望ではない。誰が考えても成し遂げることが難しいと思われることに、成功を信じて着実に行動していくことを希望という。だからこそ他の人徳より格が高いとされる。

1992年、リオ・デジャネイロでの地球サミットで「持続可能な社会」「持続可能な開発」が人類社会の共通のテーマとされた。裏返せば、私たちの世界はこのままでは持続不可能に陥る、ということを地球サミットに参加した世界162ヵ国の首脳が認めざるを得なかった、ということだ。地球温暖化防止を目的とする、気候変動枠組み条約そして京都議定書も、この地球サミットが出発点である。

それから10数年たったが、果たして世界の持続可能性は向上したのであろうか。全世界的にみて、環境、資源、食糧、水、人口、南北格差、人権侵害、戦争・・・、これら、私たちに持続不可能性をもたらす要素に、明確に良い方向に行っていると言えるものはない。それがリオの10年後に開催されたヨハネスブルクサミットがほとんど成果がないとされた最大の理由である。状況だけをみれば人類社会の行く手には暗雲がたち込めているとしか言いようがない。その中で、希望は、いくつかの国、自治体、NGO、企業・・その活動の中で素晴らしい成果を上げているところがあることだろう。

私たちが、持続可能な社会の実現を図るには、単なるポジティブ・シンキング(肯定的な思考)ではなく、希望を抱くことが必要になっている。それでは、どのようにすれば持続可能な社会を築く希望を抱くことが可能なのであろうか。いくつかの重要と考えられる要素がある。段階的で柔軟な戦略、その戦略に基づいた根源的な目的のある活動経験、多種多様な人と団体を組み合わせるパートナーシップ、そして心励まされる人と情報の交流。

しかし、何よりも必須と考えられるのが、将来像・ビジョンである。そしてこの将来像こそ日本社会で最も欠けているものであり、その欠如が閉塞感をうみだしている。

将来像は、画一的なものであってはならない。多様性を一つの基本としながら、人類社会の共有できる社会像、豊かな人生を築く基盤となる社会像を、ゆったりとした対話の中で描いていくことで創りだしていくものであろう。環境市民はその創立のときからビジョンを提案し、少しずつ書き換えてきた。このビジョンを単なる夢物語と笑うのか、実現可能な大きな目標とするのかは、希望があるかないかにかかっている。
そして環境市民は、日本の環境NGOでは実行が難しいと考えられてきた、事務所とスタッフがいるNGO、多様な活動を実行するNGO、グリーンコンシューマー活動の実体化と拡大、自治体が参加する環境首都コンテスト、などの大きくはないが小さくもない希望を実現してきた。
その経験をもとにさらに大きな希望を抱き、実現していくこと。それはNGOが本来あるべき姿であり、魅力ではなかろうか。

環境市民のビジョン (2005.6総会了承)

海は青く澄み、川には魚が泳ぎまわり、山にもまちにも緑があふれ、夜空には星が美しくまたたき、生きものたちは絶滅の危機にさらされることなく生を尊ばれ、人々は他者と競い合うことなく共に助け合い、金儲けだけの仕事に追われることなく、こどもたちは未来に目を輝かせ、歳を重ねた老人たちはその知恵と経験を敬われ、誰もが社会の主人公として輝き、宗教や肌の色の違いで殺しあうこともなく、異なる文化を認め合い、飢えも戦争も差別もない・・・世界。

※この連載の奇数回では、世界や日本の豊かな自然を描き、偶数号では今回のように日本社会やNGOへの提案を載せて行く予定です。