常寂光寺前ご住職 長尾憲彰さんを偲ぶ | 認定NPO法人 環境市民

常寂光寺前ご住職 長尾憲彰さんを偲ぶ

このコーナーは,2002年から2013年まで環境市民の事務局長を務めた堀孝弘が,在職時に書いたブログを掲載しています。

《2012年10月11日亡くなられたカンカン坊主 長尾憲彰さんのこと》

長尾憲彰さんは、嵯峨嵐山の名刹常寂光寺のご住職をされていました(1952年から)。常寂光寺は、重文多宝塔や紅葉でも有名ですが、小倉百人一首の藤原定家の庵も現在の境内の中にあったと伝えられるなど、名刹中の名刹です。
(ブログ表紙の写真は、嵐山渡月橋と小倉山(丸い山)、この山の東麓(右)に常寂光寺があります。)

観光地には多くの人が集まります。缶飲料などの使い捨て容器が増え出した1970年代、嵐山・嵯峨にも、放置空き缶をはじめとした散乱ごみが目立つようになりました。そのような状況を憂えた長尾さんは、自ら清掃作業を始められ、1975年には「美しい嵯峨野をまもる会」を立ち上げるなど、高僧でありながら地道な活動をされていました。
 

そのような姿勢が多くの仲間を集め、集めたごみの中から空き缶を分別しリサイクルするなど、活動を発展されていました。やがて長尾さんは「放置する人のマナーも問題だが、缶飲料を作り売っている企業は、どうして何の責任をとらないのだ」という思いをもたれました。その思いは、多くの賛同を得て、空き缶リサイクルの一定の負担を企業にも負ってもらう条例制定を求める運動に発展しました。
京都で環境活動をしている人の中には、長尾さんの活動に触発され、影響を受けた人が多くいます。長尾さんの活動は、京都の環境活動のルーツのひとつを創ったと言って差し支えないでしょう。
 

1980年代のはじめ、一時は条例制定間近と思われましたが、一自治体でそのような条例が制定されることに業界団体が猛反発し、結局条例は実現しませんでした。かわりに京都市による空き缶分別収集が始まり(1982年)、やがて全国の市町村に、行政による資源ごみ分別収集が広がりました。この流れが、1995年の容器包装リサイクル法制定につながったと言えます。
 

一見良いことのようですが、容器包装リサイクル法は、スチール缶やアルミ缶の場合、容器や中身商品のメーカー、商品を販売する校の事業者にリサイクル責任を負わせていません。地域住民からの分別収集とリサイクルは、市町村が労力および費用を負っています。市町村負担ということは、税金からの支出。缶など使い捨て容器をあまり利用しない人も、多く利用する人と同じように負担しなければいけません。1990年代後半以降、缶はPETボトルに置き換わりましたが、使い捨て容器の消費量はこの20〜30年の間に大きく増え、市町村のリサイクル負担も増えました。
長尾さんの思いは、未だに実現していません。
12月に開催する「ごみ減量地域実践者養成講座」のチラシをご遺影にお見せし、今も長尾さんの思いを引き継いで活動していることを報告しました。

長尾憲彰さんは、ごみ問題だけでなく、女性の権利向上活動など多くの社会活動に関わっていらっしゃった方ですので、10月13日13時からのご本葬には、たいへん多くの方が参列されていました。懐かしいお顔も多く見かけました。
境内には、大戦後、伴侶や恋人を戦争で亡くした女性たちの悲劇を忘れまいと、「女ひとり生き ここに平和を希(ねが)う」と刻まれた「女の碑」があります。碑文は市川房枝さんが書かれたものです。

 

常寂光寺すぐそばの落柿舎と北山