TASUKIお届け第3便に同行。被災地支援のあり方が見えてきた | 認定NPO法人 環境市民

TASUKIお届け第3便に同行。被災地支援のあり方が見えてきた

このコーナーは,2002年から2013年まで環境市民の事務局長を務めた堀孝弘が,在職時に書いたブログを掲載しています。

4月29日から5月2日まで、神戸に本拠を置く「阪神淡路大震災1.17希望の灯り(略称HANDS)のTASUKIプレゼント(支援資材)お届け第3便に同行させてもらい、東北の震災および津波被災地に行きました。堀が東北の被災地に入るのは2回目です。
東北では岩手県陸前高田市の広田半島にある田端という集落に行きました。宿泊および拠点にさせてもらった田端公民館も避難所になっていて、震災直後は30世帯が身を寄せていたそうですが、4月末時点では3世帯になっていました。この集落は、およそ半分の世帯が倒壊またはそれに近い打撃を受けていました。三陸の漁師町には立派なつくりの家が多く、津波によって一階をえぐられた家でも2階の屋根瓦はまったく整然としている家も多くありました。地震のゆれで倒壊する家はまったくなかったとのことで、それほど津波の威力が大きかったことをあらわしています。この集落にも沿岸には7mの防潮堤があり、大津波が押し寄せるまでは「まさか、あの防潮堤を越えることはない」と思う人も多かったとのことでした。

今回はこの集落の人たちと交流しました。この陸前高田市広田町田端は、第2回TASUKIお届け便(堀不参加)でHANDSのメンバーたちが立ち寄った集落です。そのとき土地の人たちと交流し、今回はこの集落の被災した人たち向けに、TASUKIプレゼントやガスコンロや靴などリクエストしてもらった資材、さらには地域のお母さんたちへの母の日プレゼントを持参しました。

現地では何班かに分かれ、となりの集落を含めてTASUKIプレゼントを配ってまわる部隊もあれば、別の部隊はご高齢者の独居世帯など単独でがれきを撤去できない家の掃除などをしました。自分は倒壊は免れたけれど、家の前をがれきが埋め尽くした家で、がれきの撤去をしました。1日半かかり、5~6人によって目を覆わんばかりのがれきを撤去しましたが、それでもたった1軒です。この家のおばあさんが何度も何度もお礼を言ってくださいました。「どうやってお礼を言えばいいか…」って、「そんなんええんよ。みんな自分の満足のためにやっているんやし。」など言っていましたが、息子さんと親戚(おばあさんの弟)が来て、お礼にと言って、薪でお風呂を湧かしてくれました。その薪は流れ着いたがれきの一部です。近所の人も来て「うちの風呂も使って…」と言ってくれて、2軒に分散してお風呂をいただきました。

田端公民館には近所の人たちも集まってくれて、1日目の夕食、2日目の朝食から昼、夕食と作ってくれました。持って行った食料をほとんど使うことなく、「食料は持参し避難所の食料はもらわない」という支援ボランティアの原則を破ってしまいました。土地の人の「何かしたい」という思いの強さと、東北三陸の人たちの人情の厚さを感じました。また、このプロジェクトが目指していた「決してモノを送るのが目的ではない。人と人との直の交流をつくり出し、息長く支援し続けたい」という理念に近づいたのではないかと感じました。あわせて、被災された人たちへの支援のあり方も見えてきた気がします。