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野の塾 原発事故が奪った農村の暮らし
福島県飯舘村から酪農家の長谷川健一氏をお招きし、原発事故の生の声をお聞きしました。
午前10時の開始時刻、34人の参加者を前に長谷川さんは「今、福島では放射能によってとんでもないことが起こっています」と語り始めました。さらに長谷川さんは続けます。「他人事ではなく、自分自身の問題として受け止めてください」。
長谷川さんご自身が撮影された写真をスライドに映しながら、最初に紹介されたのは、震災前の飯舘村の豊かで楽しげな風景です。平成の大合併が各地で起こる中、合併という選択をとらず、住民みんなでのむらづくりを進めてきました。無い物ねだりをしない、あるものだけで質素にやっていこう、とそんな発案をしてきた村だったのです。
しかし、3月11日午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が発生します。幸いなことに長谷川さんの家は地震によっては、大した被害を受けなかったそうですが、長谷川さんは直感的に「何かとんでもないことが起こる」と感じたそうです。ただ、それがまさか原発の事故だとは思わなかった、と語ってくれました。原発の事故が起き、対策本部に駆け込んだ時の話を長谷川さんは話してくれました。計測された放射線量を口外しないように担当者に口止めされたこと、村役場や文科省の公表するデータが現地で実際に見た数値より随分と低いこと、ありのままの情報を公開しない姿勢に、長谷川さんは非常に強い憤りをあらわにされました。
4月22日には国からの避難指示が出ました。その一方で、酪農家が飼う牛の出荷や移動は、例え放射能が検出されなくても、禁じられました。長谷川さんは飯舘村の全酪農家と話し合いの場を設け、事業の「休止」という決定を下しました。「廃業」ではなく、「休止」。この判断には、飯舘村が完全に除染され、安全宣言が出されたら、みんなでまた酪農を始めよう、という強い想いを感じました。 福島県内の育成牧場に一斉に集めるという条件で子牛の移動は認められていました。問題となったのは親牛です。国からは、2頭の牛を屠畜(とちく)し、スクリーニング検査を行い、その肉から放射能が検出されなければ、移動を許可する、との指示が出ます。長谷川さんは酪農家の代表者として、屠畜に立ち会いました。酪農家として、愛情を込めて育てた牛をこういった形で手放さなければならないのは、胸が引き裂かれるような思いだったでしょう。屠畜のために牛を手放さなければならない酪農家の方々の悲痛な様子、屠畜のために牛を送り出すその前で涙を抑えきれない様子が写真に映し出されており、胸を締め付けられる思いでした。
当日の会場には長谷川さんの知人の方も来られていました。彼もまた飯舘村で酪農を営んでいた若者の一人です。長谷川さんに促され、語る言葉は、次第に涙声になり、何年経ってでもまた飯舘に戻りたい気持ちや酪農をこれからも続けてゆきたい気持ちが溢れんばかりの感情とともに伝わってきました。 長谷川さんは最後にこう言いました。「助けてくださいとは言いません。誰にも助けることはできない。できることは放射能から逃げることだけ。だから暖かく見守っていてください。我々はこれからモルモットになる。放射能の実験材料になる」。この言葉には飯舘村に残る長谷川さんの強い決意と放射能の残る地で暮らす覚悟が表れています。この言葉が強く印象に残った方も多かったのだと思います。
終了後も長谷川さんの周りには人だかりができ、まだまだお話を聞き足りないといった様子でした。また、現地のことを、本当のことをみなさんがどれだけ知りたがっているかの表れでもあると思います。正しい情報を正しく伝える、当たり前のことのはずなのにそれができていないことを今回の事故で痛感しました。情報を読み解く力を私たち市民一人一人が養っていかなければならないのです。
(文/ニュースレター編集部 石田 浩基)